20世紀デザイン切手 第5集は? | 地球の日記☆マーク♪のblog☆

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この地球は今大きく変わろうとしている。自国主義からコロナ禍を経て、調和・融和へとイノベーション(変革)し、人生100年時代へ向けて脱炭素の環境優先へとベクトル(地球的エネルギー動向)が動いた。
常に夢を持って波に乗ろう!

 今なお、地球上の各地で、罪の無い国民が難儀をしているのを見続けるのは忍びないが、せめて前向きに人類発展の推移からおさらいしたいものであります。

 

 文化の日を挟んで、平和な時代に戻ってもらいたいと、これまたレトロな図案の前世紀切手を隔日に更新しています。

これを観ていると何のための五輪開催だったのか?クーベルタンの意思が浸透していないように思えます。

と同時にレキシの俯瞰と日本人の辿ってきたプロセスが垣間見えてきます。

 

 さて、当時の切手作りは腕に覚えのある人があれこれ考えて図案にし、それを全国的に通用する切手に仕上げるという過程が切手集から推測されるのである。

 解説文を参考にしながら考察するのも時を忘れて夢中になれる。

 それだけ多くの作り手として携わった郵便局の叡智や矜持、愛好家の理想が詰まっていると云うことなのだろうと思います。

 

さて、それでは 第五幕を開けます。

 

 

この中で個人的にもっとも興味を引かれたのが地下鉄開業です。

橙色の東京メトロ銀座線の誕生。途中で電気が切れて暗くなる瞬間がありましたね。

そのほかにも活劇など興味津々。

 

 

それでは順を追って観ていきます。

 

①映画「鞍馬天狗」の嵐寛寿郎

1927年(昭和2年)。大佛次郎が創作した幕末のヒーロー、鞍馬天狗を主人公とする映画「鞍馬天狗異聞-角兵衛獅子🦁」が制作された。この時の主演は嵐長三郎(後に嵐寛寿郎と改名)。白馬にまたがり、頭巾に黒の着流しスタイルの鞍馬天狗が国民的な人気を集め、1959年(昭和34年)までに60本以上の映画が制作され、代表格の嵐寛寿郎をはじめ11人もの役者が鞍馬天狗に扮した。

 

② ③ 東京地下鉄開業

1927年(昭和2年)の暮れも押し迫った12月30日、東京の上野--浅草間に日本初、いや東洋どころかアジアでも初の地下鉄が開業した。

鋼製・橙色の車両は、98人乗りで自動ドア、自動列車停止装置を装備し、1両編成で約2.2kmを4分50秒で運行した。

10銭銅貨を投入すると腕木が回転して通行できる自動改札機も評判を呼び、開通当初は、押し寄せた乗客が約5分の乗車のために1時間以上も待つという混雑ぶりとなった。

 

④ラヂオ体操始まる。

昭和天皇ご即位の大礼記念事業の一つとして、逓信省(のち郵政省)簡易保険局が国民の健康の維持・増進を図るために制定した「国民保険体操」のラヂオ放送が、日本放送協会(NHK)の協力を得て、1928年(昭和3年)11月1日に始まったもの。

ラヂオでの放送に加え、映画・レコードに制作や全国各地での講演会の開催などの普及活動が行われたことで、国民的健康体操として定着し、現在は「ラジオ体操」として夏休みなどでおなじみ。

 

⑤アムステルダム五輪 鶴田義行選手

1928年(昭和3年)8月8日オランダで開催された第9回アムステルダム大会の水泳男子200m平泳ぎで優勝し、水泳競技で日本選手初の金メダルを獲得した。

しかも2分48秒8のオリンピック新記録に湧いた。

さらに鶴田選手は、続く第10回ロサンゼルス大会でも同じ200m平泳ぎで優勝!日本選手初のオリンピック連覇を成し遂げた。

 

⑥アムステルダム五輪、織田幹雄選手

陸上三段跳びで金メダルを受賞。

前回のパリ大会に続いて2回目の参加となる織田幹雄選手は、アムステルダム大会の陸上三段跳びに出場した。

大会前からの好調を維持して、8月2日に行われた決勝では2回目のジャンプで15m21cmを記録して優勝し、オリンピックにおける日本選手初の金メダル受賞者となった。

 

⑦アムステルダム五輪

アムステルダム五輪で発行された8月2日の陸上プログラム表紙

アムステルダム大会は46か国、3,015人の役員・選手が参加して行われた。

競技プログラムは、当日の競技の進行予定が記録されており、意匠に採用した8月2日の陸上プログラムは、金メダルを獲得した織田幹雄選手がお持ち帰りしたもの。

 

⑧アムステルダム五輪 人見絹枝選手

陸上女子800mで銀メダルを受賞した人見絹枝選手とオリンピック・スタジアム

アムステルダム大会で初めて採用された陸上女子種目のうち、800mに出場した人見絹枝選手が2分17秒6のタイムで2位銀メダルを獲得し、日本女子選手初のオリンピック・メダリストとなった。

人見選手は100m準決勝で思わぬ敗退を喫し、その雪辱のために未経験の800mに出場して、この快挙を達成した。  (胸がジーンとくる話し)

 

⑨カフェー全盛

明治時代に登場したカフェーは、1920年代後半から1930年代前半にかけて全盛期を迎え、このころ全国で約3万軒を数えたといわれる。

ミルクホール、ダンスホールやビヤホールとともに、モダンボーイ・モダンガールらの集う社交場としてもにぎわった。

 

⑩「放浪記」林芙美子

初版本表紙と肖像

1928年(昭和3年)、林芙美子が長谷川時雨主宰の「女人藝術」に「秋が来たんだ--放浪記--」を発表。

その後同誌と雑誌「改造」に連載された文章をまとめて、1930年(昭和5年)に単行本として「放浪記」を出版した。

物心ついたころから貧しく辛い放浪の毎日にありながら、自分を見失わずに強く生きていく主人公のあり方が当時の人々の共感を呼び、この作品はベストセラーとなった。

 

<シート余白部分>

アムステルダムのオリンピック・スタジアムと金・銀メダルのイメージ(資料提供:秩父宮記念スポーツ博物館)

 

 

この第5集の感想は、⑧と⑩のヒューマニズムに尽きる。

       (吟)